M44)明治の博覧会

 まごころクラブから、恒例のガスミュージアムの『明治の博覧会』展に出かけた。博覧会の様子を画いた明治の浮世絵は、特に注目するほどのものはなかったが、会場の入口に置いてあった資料には、内国勧業博覧会の歴史が述べられていた。以下はその抜粋。

 明治4年(1872年)の湯島聖堂博覧会は、翌年ウィーンで開催される万国博への出展の準備を兼ねて、各地より美術品や動植物標本を集めて有料で公開された。この時の入場者数は19万人ほど。
 明治10年(1877年)上野公園での第1回内国勧業博覧会は、大久保利通「富国強兵・殖産興業」のスローガンのもとに、政府主導で行われた。入場者は45万人ほど。
明治14年(1881年)上野公園での第2回内国勧業博覧会会場にはガス灯や噴水が設置され、入場者も82万人に達した。
 明治23年(1890年)上野公園での第3回に内国勧業博覧会では、入場者が100万人を突破、電車の運転が博覧会の目玉だった由。
 明治28年(1895年)第4回の内国勧業博覧会は、京都岡崎公園で行われ、入場者は113万人。
 明治36年(1903年)第5回内国勧業博覧会は大阪天王寺公園で行われ、官民が共同した結果、入場者はなんと530万人に達した。この時は国内からだけでなく、各国からの出品もあり、冷蔵庫、自動車、パン。電気イルミネーションやサーカスが紹介されたという。ここで政府主導の勧業博覧会は終る。

 この内国勧業博覧会の歴史、万国博覧会の歴史と重ね合わせて眺めると、興味深い。慶応3年(1867年)のパリ万博には江戸幕府、薩摩藩、佐賀藩が独自に参加。日本として参加したのは明治6年(1873年)のウィーン万博、そしてさらに明治9年(1876年)のフィラデルフィア万博、明治11年(1878年)のパリ万博と、日本の積極的な参加が続き、日本の工芸品が欧米に紹介された。内国勧業博覧会と、世界万博の平行開催で、日欧文化の交流を促進して、ジャポニズムを生んだことは興味深い。

 明治維新の混乱は明治10年の西南戦争で、一応終止符を打ち、鹿鳴館時代が始まった。

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