テーマ:歴史・遺跡

まえがき(僕のシルクロード)

ID:jcrj2n  シルクロードは、人によって定義が違う。ある人は、長安から西域の砂漠の道を思い浮かべ、ある人は長安からローマに続く道だと言う。僕にとっては、正倉院のある飛鳥から、唐の都長安を経て、西域に出て、そこからペルシャやインドに続く砂漠の道である。幾多の詩に現れるその道は、仏教伝来の道でもあり、シルクロードと言う言葉…
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9-5)西域北道(クチャ=キジ)

 西遊記には女人国の話がある。住んでいるのは女ばかり。川の水を飲むと妊娠する。それを知らずに飲んだ孫悟空一行は全員妊娠。は茶めちゃな騒ぎが展開する。それがこの川だという話を、このクチャで聞いた。どうやら、この女人国のモデルはこのクチャ(=庫車)らしい。昔の名前は西域北道の要衝・亀滋国。三蔵法師が、この国の女王に惚れられ、貞操の危機。帰り…
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8―4)油田開発と魔鬼城 (カラマイ)

 6月30日。カナス湖畔から、ジュンガル盆地の西端を南下、油田開発で出来た町・カラマイに向かう。砂漠の中の道の両脇には、無数の小型採掘ポンプが並ぶ。ここで採れる原油は、硫黄分は少ないが、かなりの重質油である。常温では流れにくいので、蒸気を吹き込んで、温めながら汲み上げる。  砂漠の中を、タンク車を長く連結した、ジーゼル機関車が走って行…
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8―1)北庭古城(天山北路の北道)

 2006年6月、シルクロード・天山北路の町・ウルムチから、アルタイ山脈に囲まれたジュンガル盆地の東側を北上、ソ連と国境を接するカナス湖まで行き、折り返して、ジュンガル盆地の西側を南下、天山北路の町・イーニンまで行き、飛行機でウルムチに戻った。相当な悪路と辺境地帯を予想していたのだが、これが全くの期待はずれ。石油開発のために、道路はよく…
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7―4)シルクロード観光の拠点(ウルムチ)

 ウルムチには、1999年8月、2006年6月、2008年4月と3回訪れた。第1回目は西安から敦煌、トルファンを経由して、ウルムチまでの旅、第二回目はウルムチからカナス湖を経由してイーニンに至るジュンガル盆地周遊の天山北路の旅、第3回目はウルムチからカシュガルに飛び、タクマラカン砂漠の南周を走り、ニヤから砂漠公路でタクラマカン砂漠の中央…
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7―2)高昌国跡 (トルファン盆地)

 この写真、何の変哲もない砂漠の写真なのに、地平線の近くに、湖があるように見える。僕は始め自分の眼を疑った。しかし、この湖は、ツアー仲間にも良く見えたようで、カメラにも映っていた。ガイド嬢によると、このあたりに良く見られる蜃気楼との事。この蜃気楼は日が高く上がると消えて行った。ここは敦煌とトルファンの間の砂漠、苦労して玉門関を突破した三…
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7-1)敦煌(沙州)

.  1998年の敦煌は、まだ鉄道が開通していなかった。トルファンから、夜行列車で柳園に行き、そこからバスで砂漠の中の道を走った。空が茜色に染まる頃、敦煌に到着。琵琶の背弾きをしながら踊る西域の伎女(=舞姫)のシルエットが我々を迎えてくれた。ペルシャの舞姫たちによって、広められたというこの曲芸的な弾き方・反弾琵琶は、唐代にかな…
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6-1)キリル文字とノモンハン事件

 2007年7月7日から14日まで、モンゴル人民共和国を訪れた。成田で、モンゴル航空に乗って、まず驚いたのが、機内で配られる新聞。みなロシア文字(キリル文字)で書いてある。いつの間に、モンゴルはロシア語になったのだろう。でも、良く見ると、それはロシア語ではなく、モンゴル語らしい。現地に到着して、早速、現地ガイドに確かめると、1941年に…
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5-9)チベット文化博物院(西寧)

 西寧のレストランで、昼食後、最近出来たというチベット文化博物院に行く。ここの売り物は、北京オリンピックに間に合うように作ったという、織物で作ったチベットの歴史絵巻、チベットの画家400人を総動員しての作品だという。長さ618メートル、ギネスブックに登録されたとか。チベットが海の底であった話に始まり、観音様と猿と羅刹女の話、歴代の吐蕃王…
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5-6))観音様は女?男?(同仁県)

 8月14日、朝、隆務(ロンウォ)寺にゆく。青海省の6大チベット寺院ひとつで、500人の僧侶がいるという。写真は、その門前に鎮座まします、大きな観音様。高原の澄んだ青空の下で、光り輝くその美しさに、思わず息を呑んだ。この観音様、どうみても女性である。  観音様が、美女に変身して、インドのシバ神の長男のガネーシャ(=象の顔をした神)…
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5-4)ラプラン寺(夏河県)

 8月12日午後。合作から夏河に向かう。夏河に着いて、小高い丘から、ラプラン寺を眺望。緑の斜面には黄色や紫の高山植物が咲き乱れ、ピックニック気分でくつろぐ。谷川では、羊の毛を洗う人々に出会った。のんびりとした気分で、山に向かって「草原情歌」を披露。仲間からは、40代の声ですねと、お世辞を頂いた。声量や肺活量はまだ大丈夫らしい。合作も夏河…
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5-3)草原のチベット寺院(合作市)

 8月12日(水)標高2900メートルの草原に、ぽっかりと浮かぶ、写真のような8階建ての塔。なぜこんな所に、こんな建物が突然出現したのか、眼を疑った。合作市郊外のミラレパ・ラカンは、そんなチベット寺院である。このラカンは各階が次のように分けられていた。 どうやら、このビルはラカン(=お堂)の集合体らしい。   1階 弥勒菩薩堂  …
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5-2)中国のイスラム教徒・回族(臨化市)

 白塔山に登ったあと、バスは南の臨夏に向けて出発。黄土高原の丘陵と、棚田風の畑が広がる。ジャガイモや、百合根が栽培されているという。途中、高速道路を下りたあたりから、回族の居住地区に入る。回族はイスラム教徒で、白い帽子を被っているので、すぐに判るが、帽子を脱いだら、外見は漢族と見分けがつかない。商売に巧みな人種で、中国全土に分布している…
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5-1)異民族との接点(蘭州市)

 2009年8月10日(月)朝、成田に出掛ける時は、大雨。成田エクスプレスの特急券を買ってあったが、東京駅に着いたら、運休とのこと、急いで上野に出て、京成ライナーで成田に向う。窓に降り注ぐ滝のような雨をみながら、飛行機が飛ぶかどうか心配だったが、北京で乗り継いで、その日のうちに、無事蘭州に到着。蘭州空港に降り立つと、涼しい。捲り上げてい…
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4-8)兵馬俑(始皇帝墓の埴輪)

 西安の兵馬俑(=兵や馬の埴輪)については、多くの書物で飽きるほど紹介されているので、その素晴らしさについても、あえてここで述べるまでもあるまい。秦の始皇帝が、死後の自分を守らせるために、生前から作り始めたものらしい。発掘現場を、大きなドーム屋根で覆った展示場は、出土状態がわかるように等身大の人形(=埴輪)が並べられている。軍隊が勢ぞろ…
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4-7)華清地(玄宗と楊貴妃)

 楊貴妃はその玄宗皇帝の年老いてからの愛人である。735年、楊玉環は、玄宗と武惠妃の子、寿王・李瑁の妃となった。しかし740年、彼女は玄宗に見初められ、出家して女道士となり、「温泉宮」に住むことになった。この頃、武恵妃と李林甫が、李瑁を皇太子とする運動を行っている。745年、李瑁が新しい妃を迎えると、玄宗は晴れて、楊玉環を貴妃に冊立、そ…
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4-6)乾稜と永泰公主の墓(則天武后と情けない男達)

 大学からの遠足で、西安郊外にある、乾稜を訪ねた。乾陵は、夫であった高宗の陵墓に、則天武后が合葬されたもので、二人の皇帝が一緒に葬られているのは珍しい。山の稜線に作られた石の参道には、高宗の葬儀に参列した外国の使節や、武官、文官、馬や献上された動物をかたどった石像が120体ほど並んでいる。しかし首の無い石像が多いのは、どうしたのだろう。…
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4―5)興慶宮と阿倍仲麻呂

 百人一首で有名な「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」という阿倍仲麻呂の歌は、「唐に向かう船上より月を眺めて、三笠山にのぼる月を思い浮かべた」と解釈するのが自然だが、興慶宮公園の阿倍仲麻呂記念碑には、「翹首望東天 神馳奈良邊 三笠山頂上 思又皎月圓」という五言絶句が刻まれている。こちらは、「ふりさけ見れば」では…
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4-4)明の城壁と城門(長安と平安京)

 長安は、日本の平城京(奈良)や、平安京(京都)の手本になった町だが、さすが世界帝国の首都。京都や奈良とはスケールが違う。隋の文帝によって計画され、唐の玄宗皇帝の時代に最盛期を迎えたこの町の面積は、京都や奈良の4倍以上。碁盤目に大路が走るのは同じだが、平穏な日本の都には城壁がない。奈良や京都は、山に囲まれた小さな盆地の、無防備な街に過ぎ…
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4-3)シルクロードと南海航路(イスラムの脅威)

 中国から印度への道は、シルクロードだけではなかった。三蔵法師玄奘がインドから帰国の旅に出るとき、北インドのハルシャ王(=戒日王)は、三蔵法師が南海航路を選ぶなら、使臣を同行させようと申し出たが、三蔵法師は、高昌国王との約束があるので、陸路を帰りますと謝絶している。しかし、戒日王の修好使節は海路を経由して、641年に唐に到着、643年に…
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4-2)三蔵法師と大慈恩寺(大雁塔と曲江春曉園)

 28歳の夏、長安からインドを目指して、シルクロードへと一人で旅立った三蔵法師は、パスポートも持たない密出国者であった。しかし、46歳でインドから帰る時には、太宗・李世民によって、凱旋将軍さながらの待遇で迎えられた。帰国後の三蔵法師は、故郷に近い少林寺で過ごしたいと願ったが、許されなかった。太宗の命令で、唐の都・長安(現在の西安)の大慈…
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3-8)道教と青城山

 都江堰から西へ約15キロ、成都平野の西の端にある、海抜1600メートルほどの山が、道教発祥の地といわれる、青城山である。後漢の末期、張陵が五斗米道の布教を始めた場所だという。五斗米道とは、黄巾の乱で有名な太平道の四川版で、後に漢中に進出して、宗教王国を形成する。日本の一向一揆にも似た、宗教の理想を実現した王国で、魏の曹操に滅ぼされる西…
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3-7) 峨眉山と門前町

楽山観光を終えて、平野部を西へ30キロほど走ると、峨眉山の麓にある報国寺に着く。報国寺は、16世紀に建てられた臨済宗の禅寺で、峨眉山第一の寺。我々一行は、この報国寺の門前町で2泊する事になっていた。「峨眉山の頂上付近の山小屋に泊まって、日の出を眺める」のが理想だが、山頂付近には、外国人の泊まれるような所はないという。でも、その代わり…
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3-6) 三川合流と楽山大仏

 成都から南へ170キロ、大仏で有名な楽山がある。都江堰を出た岷江の本流は、ここで大渡河と青衣江と言う二つの河と合流する。川は幾つあっても、流れがどんなに激しくても、それらが同じ流れの方向で、即ち鋭角で合流するのなら、合流は静かである。しかし、北から流れてきた岷江と、南西から流れてきた大渡河は、ここで鈍角に交わる。更に、大渡河の正面は岩…
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3-5) 眠江と都江堰

 成都市の北西約60キロ、そこに都江堰がある。この堰は、眠江の流れを分け、成都平野に十分な灌漑用水を供給すると同時に、眠江の氾濫をも防止する。この堰で分けられた用水は、都江堰から南へデルタ状に広がり、成都平野を潤した後、再び眠江に流れ込む。もっとも、この用水のそれぞれは、多摩川の2倍くらいの流量のある河である。そんな用水が5-6本、この…
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3-4)揚子江文明と日本(三星堆博物館)

 五人の留学生仲間と一緒に、大学の車をチャーターして、三星堆博物館に出かける。蜀の古代遺跡専門の、この博物館は、成都から北に40キロの広漢県にある。3階建ての立派なものだが、その周りには何も無い。川べりの田んぼの中に、忽然と近代建築が出現したという状態である。この場所で、遺跡の発掘が始められたのが1986年、そして、その発掘現場に建てら…
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3-3)望江楼の女流詩人・薛涛(成都美人)

 望江楼公園は、四川大学のとなりにあり、竹の美しい庭園である。植えられている竹は、百種類以上という。公園の中には、風雅な餐庁もあれば、野趣に富んだ茶亭もある。恋人達が、愛を語り合うにも絶好の場所である。宇治に行く源氏の君と同じ様に、唐の時代の高官達が、詩情ある恋を求めて、この楼のあたりに集っても不思議では無い。僕は四川大学滞在中、よくこ…
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3-2)杜甫の草堂(中原からの疎開者)

 武候祠と並ぶ成都の名所に、杜甫草堂がある。唐の詩聖・杜甫を偲ぶ、この記念庭園は、北宋時代に作られ、その後、次第に大きくなったもので、現在では、街の中に浮かぶ、緑の島と言ってもよい程の大庭園である。市民の憩いの場になっている外苑と、杜甫の草堂が復元されている内苑があり、ゆっくり散策するには、半日は欲しい。僕は、二度、この庭園を訪れた。最…
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3-1)武侯祠(蜀の都)

 1998年に成都の四川大学で1ヶ月を過ごした。この章はその時に訪れた四川盆地の名所旧跡の思い出である。 紀元前に、秦に併合される以前の四川盆地は、蜀とよばれる独立国であった。三国志で名高い劉備玄徳や諸葛亮孔明の蜀漢(3世紀前半)は、三国の中で最小とはいえ、中国を三分する勢力であった。唐が滅びた後の五代十国時代(10世紀)にも、前蜀と…
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1-6)洛陽と龍門石窟

 洛陽の白馬寺は、遣唐使が長安(=西安)に入る前に滞在した外交賓館。そんなイメージを期待していたのだが、ガッカリ。境内には、インドから贈られたという、インド式の寝釈迦が鎮座ましましていた。この寺は、すっかり観光地化。門前の市も取り払われて、観光バスが入れるように整備されていた。牡丹祭りで賑わっているはずの王城公園も、この数日の夏日で、花…
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