3―9)フンザ王国(カリーマバード)

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 午後、バルチット城を見学、1971年まで、王様がここに住んでいたというのだから、日本的には「お城」だが、規模からすると、英語の説明の様に、FORT、すなわちバルチット砦と言った方が良い。ミール(領主)と呼ばれるここの王様は、日本で言えば、山間の小さな大名程度だが、十九世紀末までは、パミールを越えて、新彊方面に掠奪隊を繰り出していたと言う。倭寇で知られる松浦藩を思い浮かべた。

 突撃で、仲間に遅れを取る事は、男の恥じであり、戦死は男の名誉であるという気風は、フンザ人と日本人の共通点らしい。この種の集団は、内部紀律が極めて厳格で、互助精神に富み、怠け者は生きてゆけない。江戸時代の日本と同じである。かつてのフンザの領土は、パミールを越えて、新彊のヤルカンド川あたりまで広がっていたとか。1891年のフンザ・ナガール戦役では、インドに屈しはしたが、フンザは、1974年まで半独立の王国であった。度重なる英国軍の侵略には、一度も負けていないのというのがフンザ人の誇りである。

 アレキサンダー大王の遠征軍の一部が山奥に取り残されて、昔と同じ様に、掠奪行為を繰り返していたのが、フンザ人なのだろう。アレキサンダーの末裔らしき、青い目の若者が、城の案内人であった。険しい山の斜面を背にした、三階建ての城の屋上からは、フンザ谷の全貌が見渡せる。カラコルム・ハイウエイが出来なかったら、フンザは王国のままであったかもしれない。

 バルチット城から、ホテルに下りる斜面の中ほどで、青い屋根の長谷川スクールの贈呈式が行われていた。日本の登山家・長谷川さんが、ラカプシで遭難され、その御遺族達が、長谷川さんの思い出にと、校舎を建てられたのだという。イスラムの国には珍しく、着飾った女性や子供達も、式典に参加していた。我々が日本人と見ると、村の人々が、「ジャパン、フレンド」等と声をかけてくる。「学校の校舎とは、素晴らしい記念碑だな」と感心する。しかし、王様から直接聴いた話によると、この校舎の利用方法は、まだ決まっていない由。建物は出来ても、それを使うソフトを援助しなければ、とんだ無用の長物になりかねない。発展途上国援助の難しさを思い知らされる話である。

 因みに、イスラマバードからフンザまで来る途中、山の中の何もない所に、日本政府の援助で出来たという立派な橋が、インダス川に架かっていた。誰も渡っている様子はない。こんな所に莫大な費用をかけるくらいなら、カラコルム・ハイウエイの崖崩れを無くする為に、何かして欲しいと思うのは、現地の人々の気持ちではなかろうか。でも、そんな地味な仕事は、日本の建設会社が喜ばないのであろう。まして、カラコルム・ハイウエイは現在でも軍用道路である。日本が援助できるプロジェクトではない。だとすれば、落石街道から見える、誰も通らない立派な橋は、反って現地の恨みを買うだけの、無用の長物ではなかろうか。税金の無駄使いの感をまぬがれない。写真は長谷川スクールを見下ろす丘にて。

 フンザのバザールを散策。と言っても田舎町。誰もいない店もある。そんな時には、隣の人に聞くと、店の主人を呼んで来てくれる。お土産にフンザ帽と、杏仁と干した桑の実を買う。フンザ帽は4ドル(200ルピー)。1980年のフンザ紀行によると、フンザ帽は600円(30ルピー)とあるので、ルピーでは7倍だが、日本円ではほぼ同じである。

 杏仁は、子供の頃の禁断の味。杏や梅の種を割って、仁と言われるナッツを取り出して食べることは、子供の身体に良くないと止められていた。それが何故だかわからなかったが、今回、杏仁を食べてみて、初めて理解できた。杏仁には、バイアグラと同じ効果があるらしい。山岳地帯の人々は、この杏仁を非常用食料として持ち歩いて、凍死を免れるのだと言う。血管を広げて、血流を良くするのだろう。



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