風三郎 日舞を習う/リハビリ日記

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zoom RSS U17)明治14年の政変とポンチ絵

<<   作成日時 : 2017/04/04 10:34   >>

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 明治14年、北海道開拓史長官の黒田清隆が、同じ長州閥の友人五大友厚に、格安の金額で国有財産を払い下げる事を、東京横浜毎日新聞と郵便報知新聞が、明るみにした事から始まったこの政変、単なる汚職事件かと思っていたが、その後の日本の進路を決めた大事件だったらしい。今回、小林清親が浮世絵から風刺漫画(=ポンチ絵)に転向した時代背景を調べていて、その事に気がついた。政治には思って見なかった裏がある。

 明治維新はとりあえず無事終ったものの、維新で失業した武士達の不満は大きかった。その不満を朝鮮征伐で解消しようとした西郷案は採用されず、明治7年の江藤新平の佐賀の乱に始まり明治十年の西南戦争で終る士族の反乱を招いた。一方、失業した武士たちを近代化のために活用しようとした動きが政府の主流を占めた。北海道開拓や富岡製糸場などの政府事業が軌道に乗ったら、それを武士たちに払い下げて、彼らを近代化の起爆剤にしようと言う政策で、その恩恵を受けた士族も少なくない。黒田の動きはその線に沿ったものであったらしい。

 征韓論で政府を去った西郷と江藤は、不平士族と死を共にし、残った板垣は自由民権論者として、不平士族とともに、憲法制定や国会開設を要求して行く。この自由民権運動が、黒田の国有財産払い下げをあぶりだした。一たん政府はこの払い下げを取り消して、10年後の国会開設と憲法制定を約して、騒動の鎮静化を狙った。そして、政府は政権内にいた自由民権派の追い出しにかかった。明治14年の政変とよばれるもので、佐賀出身の大蔵卿・大隈重信や、越後出身で郵便の父と呼ばれる前島密、大分出身の福沢諭吉とその弟子達、などが官界を去った。その結果、政府内での長州閥が大いに強化されて、憲法制定の流れは自由民権の英米式ではなく、立憲専制君主のプロイセン方式になった。

 野に下った自由民権主義者は、大隈を党首に立憲改進党を結成、板垣の自由党とともに自由民権運動を始める。福沢諭吉たちは時事新報を立ち上げ、経済界に力を伸ばした。前島密が立ち上げた、郵便報知新聞は、当初は政府の広報誌的性格で、郵便網を使って配布されるなど、保護を受けていたが、前島等が下野した明治14年には、大隈等に買い取られ、立憲改進党の機関紙になった。

 自由民権運動による反政府活動を封じるために、明治政府の言論統制は、次第に厳しくなる。明治8年に出来た新聞紙条例は、明治16年には雑誌にまで適用範囲が広げられた。この言論統制の網をくぐるような形で発展したのが、風刺漫画であるポンチ絵である。これは天保改革の時の国芳らの浮世絵と似ている。

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